量子化学・量子技術の基礎知識

関先生のコラム

関先生のコラム9・・・チューリッヒ

2026.05.11

私は大学院修士課程のときに文部省にご支援いただきスイスのチューリッヒで1年過ごしたことがあります。私が学んだ東工大での指導教官である飯島俊郎教授(染色化学)の盟友で、色素化学で有名なツォーリンガー教授がスイス連邦工科大学チューリッヒ校((ETH Zurich、ETHはドイツ語の大学名の頭文字です。通称:チューリッヒ工科大学)におられ、その先生にアレンジいただいて、物理化学教室の単分子分光学のパイオニアであるウルス・ヴィルト(Wild)教授の研究室にてお世話になりました(図1)。私にとってこのチューリッヒ滞在は宝物です。コラム7でプランクが活動したベルリンのことを触れましたが、チューリッヒにはETHとチューリッヒ大学があり、自然科学研究の重要な拠点の一つです。(ローザンヌにETHの姉妹校がありますが、このコラムのETHはチューリッヒ校のことです)。

 

図1 筆者がチューリッヒに滞在していた頃のETH本館(左)とチューリッヒの中央駅(右上)。右下は研究室での様子(左がヴィルト教授で中央が筆者)。(1980-1981年に筆者撮影)。

 

現在ETHの自然科学分野の建物は郊外のヘンガーベルク(Hönggerberg)キャンパスへと移転しましたが、私が滞在した1980年ころは、まだチューリッヒ市街の中心(Zentrum)にありました。Zentrumキャンパスとチューリッヒ大学は中央駅(図1右上)から短いケーブルカーで昇った小高い丘陵に位置します。先人が活躍した雰囲気を街中で直に感じることができたわけで、私にとって幸運でした。留学当時は何も知らずにいましたが、私自身その後に研究所や大学での仕事を得て知識が増えるにつれ、もっと心してチューリッヒで過ごしていればよかったと思うようになりました。

 

チューリッヒにゆかりのある量子力学・量子化学分野の著名な研究者を以下に記します。

 

<アインシュタイン> アインシュタインはスイス国境に近いドイツで生まれ、スイスの国籍も得てETHで学びました。ただ入学も卒業も平坦ではありませんでした。多数の教科が課されたETHの入試では不合格でした。ところが、数学と物理がとびぬけて良い結果であることが学長の目に留まり、翌年に教養の講義もきちんと受ける条件で入学が許されたとのことです。アインシュタインは大学の講義のレベルに満足できずに欠席が多く、当時の物理学長に不満をぶつけて対立し、数学や物理の卒業試験がトップであるにもかかわらず、ETHに残ることは拒絶されました。無職で困っているところに、友人の助けでスイス首都のベルンの特許局の局員として職を得ました。彼はベルンの特許局に籍をおきながら、驚くべきことに、その名が知れ渡ることになる重要な論文[光電効果の理論(光量子の理論、ノーベル物理学賞の受賞対象)、特殊相対性理論(説明は不要でしょう)、ブラウン運動の理論(分子・原子が実在することの証明)]を1905年、26歳にて3報立て続けに発表しました。どれ一つとっても物理学上の革命的なものであり、そのため1905年は奇跡の年と呼ばれます。コラム1では、この100年後の2005年が世界物理年として位置づけられていることに触れました。これらの業績でアカデミアに転職し、チューリッヒ大学、プラハ大学、ETHの教授を経て、ベルリン大学などへと移ります。期間は短いですが母校のETHで教授職を得たことは、彼にとって学生時代のリベンジと言えるかもしれません。

 

<パウリ> コラム2とコラム3ではパウリのことを書きました。この一連のコラム掲載を始めるにあたって真っ先にこの人物に触れたのは、私が勝手にETHで活躍したパウリに親しみを持っていたからです。パウリはミュンヘン、ゲッチンゲン(「パウリ効果」の都市伝説はこのころからでしょうか(コラム2を参照)。パウリ自身はこれを喜んでいたようです。)、コペンハーゲン、ハンブルクなど多くの大学・機関を動きましたが、1928年以降、世界大戦の関係で一時的に米国に渡ったものの、終戦後すぐにチューリッヒに戻り、亡くなるまでの生涯の大半をここで過ごしました。ですから、一般にパウリといえばチューリッヒのイメージが強いです。私も留学時にETHの広報誌にパウリの写真が掲載されているのを目にして、その時からパウリ=ETHの印象を持ちました(広報記事はドイツ語でしたので、残念ながら書かれていた内容はよくわかりませんでした)。アインシュタインは自分の後継者はパウリだと言っていました(コラム2参照)。しかし残念ながら、パウリはアインシュタインの没後わずか3年後の58歳という若さで亡くなりました。

 

<シュレディンガー> シュレディンガー方程式(波動力学)は量子力学・量子化学の中心にあり、理工系学生であれば誰もが学んでいます。シュレディンガーは、ウイーン、シュトゥットガルトなどいくつかの大学を経て、ラウエ(X線のラウエ斑点で有名、チューリッヒにも滞在)の後任として1921年にチューリッヒ大学に着任し、ここで6年間過ごしました。波動力学を提案した論文発表が1926年ですから、チューリッヒ大学での活動はシュレディンガーにとって最も創造的で充実していたと言えるでしょう。チューリッヒ大学の本館は印象的な緑のドーム屋根のあるとても素敵な建物で、ETHの隣なので私もよく眺めていました(図2)。おそらくこの美しい建物のどこかで波動力学創出への思索と準備がなされたのでしょう。そんなこととは全く知らずに、私はこの建物の横でチューリッヒ湖を望む小径(図2の手前の小径)をのんきに歩いていました。今となってはもっと心に刻んでここの空気を吸っておけばよかったと思います。

ちなみに、エントロピーの概念を世に出した熱力学の巨匠のクラウジウスもETHとチューリッヒ大学で活躍しました。ETHの近くに「クラウジウス通り」があります。シュレディンガーはチューリッヒを去って15年以上経ってから、エントロピーに基づいた考察から、遺伝子の本質は巨大分子にあると論じました(コラム4参照)。もちろん、それが今はDNAであることがわかっています。私の勝手な想像ですが、シュレディンガーがエントロピーに基づいて生命現象を深く考察したのは、チューリッヒで研究したことが間接的に影響しているのかもしれません。

 

図2 チューリッヒ大学の美しい建物(Wikipediaより)2009,©Roland zh

 

<エルンスト> NMR(核磁気共鳴)分光は量子技術を基盤としたきわめて重要な分析ツールで、化学や生物の分野では必須です。私はETHのヴィルト教授(図1)にお世話になりましたが、その物理化学教室の一つ下のフロアに、FT(フーリエ変換)NMRや二次元NMRなどを開発されたリヒャルト・エルンスト教授の研究室がありました。エルンスト教授はとても穏やかで温厚な先生で、廊下やエレベーターで会うたびににこやかに挨拶してくださいましたし、研究室の中の装置も自ら丁寧に説明してくださいました。それから10年程経って、私が工業技術院のつくばの研究所で仕事をしていた時に、エルンスト先生がNMR分光への貢献でノーベル化学賞を単独受賞されるというニュースが飛び込んできました。あの先生が!と驚きましたが、考えてみると有機化学、高分子化学、薬学、生化学などの研究はFT-NMRが無ければ何も進まず、医療分野での核磁気共鳴画像法(MRI)もFT-NMRの応用であり、突出した研究を進められていたわけです。当時の私はエルンスト先生がそのパイオニア本人だったことを把握しておらず、つくばでノーベル賞受賞のニュースに触れて自分を恥じる思いでした。また同時に、すごい先生は実はいつもごく自然に謙虚に振る舞われるものだ、と強く感じ入った次第です。これはチューリッヒ滞在で得た貴重な体験の一つです。

 

名古屋市量子産業創出寄附研究部門 特任教授 関 隆広

 

 

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