量子化学・量子技術の基礎知識

関先生のコラム

関先生のコラム11・・・量子論の中心・・ニールス・ボーア

2026.08.28

このシリーズのコラムにて、すでに何人かの先駆的な研究者を取り上げていますが、古典論から量子論・量子力学形成へのゲームチェンジを主導したニールス・ボーアのことを取り上げないわけにはいきません。テレビゲームでいうとまさにボスキャラです。20世紀に誕生した現代物理学のもう一人のボスキャラである相対性理論で有名なアインシュタインも実は量子力学については相当に心を割き、結果的に重要な役割を果たしています。今回はボーアに、次回はアインシュタインに焦点を当てようと思います。

 

1.ボーア登場

私たちは何気なく原子や分子への光吸収や発光現象は身の回りで日常実感しています。たとえば、日焼け防止クリームでは紫外光を吸収する成分が入っています。また、普段スマホやテレビ画面で光を通じて様々な情報を得て、テレビゲームも楽しんでいます。日常光に接していて、普段こうしたことに不思議さを感じないかもしれません。実は物質が光を吸収したり発光したりする現象、さらに言うと原子・分子の構造そのものも古典物理学の枠組みでは全く説明できず、かつて物理学者たちを悩ませた大問題なのです。

 

19世紀に分光器が発明され、さまざまな原子や分子のスペクトルが観測されるようになりましたが(フラウンホーファーやオングストロームなどが活躍しました)、原子や分子から放射される光の波長の規則性がありそうでしたが、これを説明する理論は見つからないだろうと分光学者はあきらめていました。そのつかみどころのない状況に強力な一矢を放って登場したのがボーアです(図1)。

 

図1 ニールス・ボーア (Wikipediaより)

 

デンマーク生まれでJ.J.トムソンとラザフォードの下で原子模型の研究に着手した新進気鋭の物理学者であるボーアは、28歳のとき、もっとも軽い水素原子の構造モデルと発光の理論を発表しました(1913年)。プラス電荷の小さな原子核の周囲をはるかに小さな質量のマイナス電荷をもった電子が周っていることはすでに長岡、トムソン、ラザフォード、ミリカンなどの業績で信じられていました。しかし、悩ましいのは電荷をもった電子が原子核とクーロン力で引き合って円運動をしていて、なぜその構造が安定なのかです。電磁気学によれば、電荷をもった電子が直線運動でなく円運動をすれば、電磁波を放射して運動エネルギーが失われるはずで、直ちに電子が中心の原子核にぶつかり、原子構造は消滅する運命をたどるはずです。なぜそうならないのでしょうか。

 

ボーアは放電による発光スペクトルを説明するのに、水素原子にはとびとびのエネルギーの電子軌道があり、電子が違うエネルギーの軌道の間でのジャンプ(電子遷移といいます)する際にそのエネルギー差に相当する波長の光の吸収や発光が起きると考えました。驚くべき発想は、とびとびの軌道に電子が留まっているときは安定であるとしました(これを定常状態といいます)。これは、上で触れたように電磁気学とは矛盾することですが、このことは大胆に仮定として目をつぶり理論を構築しました。量子論と古典物理学を直観的に混ぜ合わせた理論です。なぜ定常状態があり得るのかは、後に1925年以降のハイゼンベルクやシュレディンガーによる量子力学や不確定性原理が誕生してから理解されることになります。

 

自然科学や新しい技術には卓越した研究者により不連続的に発展することがしばしばです。一般には、科学技術の発展は、理解を進めながら徐々に段階的に積みあがっていくイメージがあるかもしれませんが、そうでないことも多いです。若きボーアの業績は、まさに電子遷移がごとくの不連続的な大ジャンプと言えます。

 

相対性理論や、光の波と粒子の二重性など、それまでの常識的な考えを次々に打破した革新的な物理学者であったアインシュタインもボーアの発表には驚きました。アインシュタインには発想しても、こうしたモデルを発表する度胸はなかったようで、ボーアの直観力と勢いが良くわかります。大局を見据えて当時説明がつかないことには目をつぶったボーアの水素原子モデルの発表に対して、アインシュタインは「最高に芸術的な思考」と評しました。量子論というまだ当時「不安定で矛盾もある基礎理論」を利用し、ニュートン力学と電磁気学を巧みに融合させました。水素原子に限れば、理論と分光スペクトルの実験結果とは完璧なほど一致します。

 

量子論の発展過程で、1905年のアインシュタインによる光量子の提唱や1913年のボーア理論などの量子化の定式化がない(量子化を仮定とした現象論でとどまっていた)段階を前期量子論、1925年以降のハイゼンベルクやシュレディンガーによる定式化された量子力学や不確定性原理の誕生以降は後期量子論と呼ばれます。

さて、少し話は逸れますが、量子論や量子化学を学ぶ学徒の立場に立つと、ボーアの水素原子の理論のレベルの量子化のみであれば、エネルギー量子(主量子数)の扱いで済んで幸せだったかもしれません。ここまでは高校の物理で学びます。しかし、現実はそう単純ではなく、説明できない実験事実が山のように出てきて、大学以降は量子の扱いはどんどん複雑になっていき、主量子数に加えて、方位量子数(角運動量量子数)、磁気量子数、スピン量子数が加わります。また、水素以外の原子では、複数の電子があるためにそれらが影響しあうため、変分法や摂動法といった近似法の出番となり、大変面倒くさいことになります。大学の化学系の学生さんの頭の中に、「量子は難しい」と刻印されてしまう理由のひとつかと思います。

 

2.人間ボーア

ボーアのさらなる重要な業績は、卓越した直観力に加えて、人間的な大きな包容力と高い社会性から、多くの理論物理学者が活躍できる場を与え、多くの研究者との対話によってその後の量子力学の発展を強力に進めたことです。当時理論物理を目指す若い研究者には活躍の場が極めて限られていました。ボーアは、ビールのカールスバーグ醸造所の財団の支援を受け、理論物理学研究所をコペンハーゲンに作りました(のちにニールスボーア研究所と呼ばれるようになります)。ここに、ハイゼンベルク、パウリ、シュレディンガー、ディラック、仁科をはじめ、多くの天才物理学者が集まり、量子力学が形成されていきました。このリーダーシップ力、対話を通じて混沌とした議論を見事にまとめあげていく卓越した能力があったからこそ、量子の概念そのものはプランクが創始者ですが(コラム7)、量子論の中心にボーアが位置付けられる所以です。

 

余談ですが、個人的にはカールスバーグビール醸造所の財団が理論物理学研究所という人類全体の英知のための研究所を作り運営したのは“すごい!”と思っています(後にロックフェラー財団も運営を支援しているようです)。通常、ビール会社だったら例えばバイオ技術の研究所を作って、企業の技術戦略の一助にするといった発想になりそうですが。当時の財団トップの英断は時節をぴったりと捉えていて、量子力学が急速に発展するインフラを作ったわけで、影の大功績といえるでしょう。

 

図2 コペンハーゲンにあるニールスボーア研究所(旧理論物理学研究所)(Wikipediaより)

 

量子力学の形成プロセス、特に解釈問題は一筋縄ではありませんでした。ボーアを中心としたコペンハーゲン学派の解釈、不確定性原理や確率解釈などはアインシュタインに生涯受け入れられることはありませんでした。とくに量子もつれの問題(EPR相関)は有名で、これは次回のコラムで触れることにします。また、量子力学の骨格となる波動方程式を提案したシュレディンガー自身も量子の重なり状態や観測によってはじめて状態や粒子の位置が確定する解釈には納得できませんでした(コラム4、シュレディンガーの猫を参照)。議論に疲れたシュレディンガーは理論物理の中心から次第に距離を持つようになり、生物分野に興味を移し「生命とは何か」という名著によって分子生物学の誕生を促したこともコラム4で触れました。

 

このように、ボーアは敵対者とも言える論客と常に誠実かつ粘り強く対話を続けました。その強靭な精神力やスタミナには驚くばかりです。ボーアは単なる天才肌ではなく、人間的な強さと社交性を兼ね備えていたからこそ、同門のハイゼンベルクやボルンらとも時に対立しながらもコペンハーゲン解釈(量子力学の本流の解釈)をより完成形へと作り上げていくことができたものと思われます。

学問だけでなく、ボーアは原子爆弾による軍拡競争を深く憂慮し、西側諸国とソ連を含めてその管理及び使用に関する国際協定の締結に奔走し、国際政治的に影響力のある人々と交渉を行ったことでも知られています。残念ながらこの願いは叶いませんでしたが、ここにもボーアの人間としてのスケールの大きさがうかがえます。

 

カールスバーグのビール、すっきりと味わい深くて私は大好きです。たまにはカールスバーグのビールを味わって、量子力学の黎明期に思いをはせようと思います。このビールはデンマーク王室の御用達でもあるようです。

 

 

名古屋市量子産業創出寄附研究部門 特任教授 関 隆広

 

 

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