量子化学・量子技術の基礎知識
関先生のコラム10・・・私の「量子」との出会い・・「部分と全体」
2026.07.06私の「量子」との出会いは、東京工業大学の学部2年生だったころ、触媒化学や化学反応論で著名な慶伊(けいい)富長先生が担当された講義「物理化学」となります。慶伊先生は北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)の創設にご尽力され、同大学の初代学長になられた方でもあります。先生は科学の歴史とその啓発活動に強い関心を持たれており、JAISTにある科学技術系の貴重な歴史的図書には先生のコレクションが多く含まれていると聞いています。
さて、先生は講義時間の開始から(しばしば)遅れてきて(わざと待たせて学生の集中力を高めようとされたのかもしれません)、必修講義にもかかわらず教科書の内容はあまり詳しくお話しされなかった印象があります。講義が始まってしばらく30分くらいは教科書以外の、日本の科学技術のことや外国で見聞してきたことなどの話など広範な話をされていました。当時日本人のノーベル賞受賞はまだ少なかったのですが、日本は欧米から水をあけられているわけではない、日本の科学技術は世界からきちんと認識されているという意のことをおっしゃっていました。2000年以降日本人のノーベル賞受賞者がぐっと増えていくことになりますが、その20年以上前のことです。講義時間の終りのころとなって「今日のところは教科書の##ページから$$ページまでなので、自分で読んで自習しておきなさい」という調子でした。高校までにこんな授業は受けたことがなく、大学にくると講義はこうなるのだと、目を丸くした覚えがあります。
慶伊先生の講義には、学問や技術を単なる知識や計算テクニックではなく、広く俯瞰できるセンスを学生に身につけさせたいという意図があったことが、今となっては良くわかります。どのような背景があってその発見や発明がなされ、それがどのような意味を持つのかなど、講義は教授の独自の見解も含めた、より深い部分が強調されているようでした。学生としては、本当は難解な物理化学の教科書の内容を教えて欲しかったのですが。
慶伊先生の話はこんな感じでした。「20世紀の初頭に、物理学には二つの大きな変革が起きた。一つは相対性理論、もう一つは量子論。相対性理論はアインシュタイン一人で作られたが、量子論については多くの天才的な物理学者が関わっている。量子論のリーダー的存在はボーアであり、アインシュタインとボーアが現代物理学誕生の黎明期における双璧をなす研究者である。・・・量子論には前期量子論、後期量子論に分けることができ、・・・」など、基礎専門科目としての物理化学(量子化学)というよりは科学史や哲学の色彩が強いものでした。ですから、講義後に教科書にある数式等の意味を独学でフォローするのが大変でした。期末試験はもちろん教科書の内容が出されますので難儀しました。
今はこういう講義ができる先生はいないように思いますし、私もできません。いま、大学は外部評価機関により講義の実施実態が評価されるので、先生方は講義の回数を確保し、教科書の内容をカリキュラムに沿ってきちんと教えるスタイルが大学から強く要請されています。
慶伊先生はある日の講義で、「ハイゼンベルクが著した「部分と全体」(みすず書房)を読んでおきなさい」と言われました。実際この本を買って読みましたが、内容は学部生の当時では全く面白さを感じませんでした。その本の冒頭には、ハイゼンベルク、ゾンマーフェルト、パウリ、ボーア、プランク、ボルン、シュレディンガー、アインシュタイン、フェルミ、長岡半太郎、仁科芳雄などが写っているスナップ写真がならび、本文は湯川秀樹による序文から始まっています。学生の時の私はこれら方々がどういう人なのかも良くわかっていませんでした。

W.ハイゼンベルク著、「部分と全体」、湯川秀樹序・山崎和夫訳、みすず書房、日本語初版1974年
しかしあれから50年経ったいま、この本を読みなおしますと、神々しい内容に思えます。現代物理学の誕生は、哲学とは不可分であること、最高の研究者の間での多くの対話と議論によって形成されてきたこと、また歴史的には先の世界大戦とも重なってきわめて難しい門出であり、現代物理学は急激に変化した社会情勢とも不可分であることなどが実感されます。
時代背景の一例です。原爆開発は、実際にはナチスドイツでは本格的な開発はなされませんでしたが、米国はこれを恐れてアインシュタインの進言もあってマンハッタン計画を強力に進めました。ハイゼンベルクはドイツでの原爆開発の主導者とみなされていました(彼は原発開発をわざと遅らせたとの説もあります)。ハイゼンベルグは、終戦時に連合国軍から逃れるために、健脚でもあり自転車で(!)逃げたようです。結局すぐにつかまって抑留生活を送ることになりました。連合国側は、ここに抑留している人々が “すごい人”であることを理解していたので、とても紳士的に振る舞ったようです。戦勝国側は敗戦国側の人々を手荒く扱うのが常のように私は思っていましたので、これは素晴らしいことだと思いました。
抑留中に、日本の広島に原爆が落とされたニュースが入り、ハイゼンベルクはその現実をすぐには信じることができずにいました。一緒に抑留生活を送っていたウランの核分裂の発見者であるオットー・ハーンはひどいショックを受け、取り乱して部屋へ戻っていったことなど、緊張感のある場面が描かれています。確かに物理化学の教科書にはこんなことは書かれません。慶伊先生は例えばこういう背景を学生に知ってほしかったのかもしれません。
慶伊先生は今から20年ほど前の2007年に他界されました。私と慶伊先生との接点はこの学部2年生のとき受講した「物理化学」の講義のみです。しかし、この講義は大学で受けた講義で最も記憶に残っているものの一つです。結局、量子化学の学習内容はほとんど身につきませんでしたが、教授の人柄がにじみ出る楽しみな講義でした。私が、この一連のコラム掲載にあるように、先人の人物像、創造のきっかけ、時代背景に興味を持つようになったのは、この講義に原点があるような気もします。
次のようなエピソードもありました。当時の講義室はサークルや活動家などのビラ配りが頻繁で、多くのチラシが教室に散乱していることが常でした。慶伊先生は教室に入ってくるなり、「こんな散らかっている環境で学ぶことを良しとする感覚を持ってほしくない」と、私たち学生に、まず床や机に散らばっているチラシを回収してごみ箱に捨てさせ、それから講義が始まりました。講義前に教室を掃除させ、教科書の内容をあまり教えないスタイルの講義は、今ではありえないでしょう。今は学生アンケートを実施して学生側から講義評価がフィードバックされますので、学生側から直接か、教務側から文句が出そうです。掃除に関して言えば、今の大学ではどこも業者が講義室を清掃しています。
私の学生時代からもう半世紀が経ちました。ひと昔前のような教授の個性が存分に出る講義はいま理工系の基礎専門科目ではされていないでしょう。あのころは講義のシラバスという言葉すら聞いたことがありませんでした。型にはまらない自由な大学講義をいまは懐かしく思います。
名古屋市量子産業創出寄附研究部門 特任教授 関 隆広






