量子化学・量子技術の基礎知識

関先生のコラム

関先生のコラム3・・・電子スピン

2025.05.27

前回のコラムで、パウリが第4の量子数をもって排他原理を提唱し、これで原子の電子軌道へ入る電子数が決まること、元素の化学的性質が周期的となることをきれいに説明できることをお話ししました。

この4番目の量子現象とは何でしょうか。パウリ、ハイゼンベルク、おそらくボーアもこの新たな量子数は状態が二つのみなので、電子の自転モデル(右回転と左回転の二つ)として捉えるアイデアがすぐに浮かんだようですが、冒険すぎて公表することができなかったようです。

パウリの弟子にあたるクローニッヒはすぐに電子の自転モデル理論を独自に完成させていたようです。しかし、電子のサイズを考えると、観測される角運動量を得るには、光速を大きく超える速さで回転する必要があることや、理論的に導き出される磁気モーメントの値が実験値とほぼ2倍の差異があり、不自然にこの2倍の因子が式に加わっています。このことから、パウリもハイゼンベルクも自転モデルを相手にしなかったようです。これを理由に、クローニッヒはやむなく電子自転モデルの論文の公表を控えました。

 

ところがわずかその数か月後、パウリの排他原理の論文に感銘を受けた(直接講演を聴いたという話もあります)オランダのライデン大学の大学院生であるウーレンベックカウシュミットが電子の自転モデルを出し抜いたように発表し(1925年)、これを“スピン”と名付けました。

クローニッヒには気の毒な話ですが(とはいえ、クローニッヒは他の業績で大変著名な物理学者です)、ほとんどの教科書でこの二人の大学院生が電子スピンの発見者と扱われています。二人の大学院生の師であるエーレンフェストは、この論文投稿の“冒険”に際し、「充分若いのでバカなことをしても許される」として投稿の際に背中を押しました。これにはさらなるエピソードがあって、大学院生のウーレンベックは受理された論文中、理論と実験を合わせるための例の2倍の因子がどうしても気になり、論文の取り下げを雑誌の編集に求めました。しかし、すでに印刷されてしまって、そのまま世に出たようです(大岩正芳著、「初等量子化学」のコラム、朝永振一郎著「スピンはめぐる」参照)。

この2倍の因子についてはその後ディラックがうまく説明して、結果的に事なきを得て、若い大学院生は量子力学の世界に鮮烈なデビューをすることになりました。ウーレンベックとカウシュミットの論文原稿は、世に出るまでに(当時強い反対意見を持っていた)パウリの目に触れなかったという幸運も味方したようです。

 

電子のスピンは古典的な物理のイメージの自転とは別物で、電子の内在的な特性と考えるべきですが(ですから、自転や回転と呼ばずにスピンと表現します)、スピンの概念は今となっては量子力学・量子化学・量子計測の基盤として確立されています。また、いま急激に進展している量子コンピューターで用いる量子の重ね合わせ状態(量子ビット)を得るためにもよく利用されます。

電子スピンの解釈の妥当性が明らかになるにつれ、パウリは弟子のクローニッヒの自転モデルを自ら否定したことを大いに悔やんだとのことです。こうした一連のドタバタのいきさつにはとても人間味を感じますね。革新的な物理学が生まれるフロントラインでは相当な葛藤や緊張感があったことがうかがえます。

Wikipediaによりますと、二人の大学院生によって電子スピンの概念が生み出されたオランダのライデンの街にはそれを象徴する絵を描いた家があるようです。もし機会があれば訪ねてみたいものです。

Electron spin by Samuel Goudsmit and George Uhlenbeck, visualized on a wall in Leiden. Gerecht 13, Leiden (the Netherlands)

 

最後にトリビア話ですが、教育の教材としてスピンの歳差運動(みそすり運動)やジャイロ効果を視覚的に示したいときに、よく地球ゴマが使われます日本で地球ゴマを制作していたのはタイガー商会というところで、名古屋市千種区(名古屋大学のある区です)にありました。私も子供のころからこのコマは好きでよく遊びました。残念ながら、その後タイガー商会はなくなってしまい、この科学玩具の生産も途絶えました。子供が遊ぶアイテムは、ゲーム機に押されてしまったのかもしれません。

しかし、ネット情報によると、地球ゴマの生産技術が途絶えることを惜しむ声が多く、10年ほど前にタイガー商会の技術者により新会社「タイガージャイロスコープ」が設立され、「次世代地球ゴマ」の復活に向けて動き出したとのことです。

 

このように、名古屋市と量子技術はすでに教育効果という側面で何十年も前からやんわりと関わりがあります。

 

名古屋市量子産業創出寄附研究部門 特任教授 関 隆広