量子化学・量子技術の基礎知識
関先生のコラム6・・・ニュートンのリンゴ
2025.08.21先日(2025年8月6日)、東海国立大学機構(名古屋大学と岐阜大学)の量子フロンティア産業創出拠点(Q-BReD)と産業技術総合研究所(産総研)の量子・AI融合技術ビジネス開発グローバル研究センター(G-QuAT)との交流会がつくばで行われ、私も同行させていただきました。つくばのG-QuATでは、世界トップレベルの高性能量子コンピュータの立ち上げへ向けた施設等を見学させていただき、大いに刺激を受けてきたところです。この交流会は、現在私どものQ-BReDのディレクターで、産総研G-QuATの初代センター長を務められた、村山宣光先生のアレンジで実現しました。
その際、産総研の旧電子技術総合研究所(電総研)の敷地の一角にニュートンのリンゴの木の子孫が植えられていることを知りました。さらについ最近、名古屋大学理学部の坂田・平田ホールのすぐそばにも植えられていることも知りました。つくばのリンゴの木は、電総研の設立(1891年、当時は逓信省電務局電気試験所)100周年を記念し、英国の国立物理学研究所にあるニュートンのリンゴの木の子孫の苗木が送られたとのことです(写真上)。また、名古屋大学のリンゴ木は、小林誠先生と益川敏英先生のノーベル物理学受賞を記念して、同じくかつて英国から送られ東京大学理学部付属小石川植物園で育てられてきたものが植えられているとのことです(写真下)。ニュートンのリンゴは古典力学のシンボルです。今回のコラムでは、これにまつわり感じたことに触れます。
ニュートンのリンゴの木、つくばの産総研(旧電総研、2025年8月6日撮影、上)と名古屋大学理学部(2025年8月22日撮影、下)
2020年からの約3年間、新型コロナ感染症のパンデミックにて世界中が大打撃を受けたことは記憶に新しいと思います。新型コロナの世界的な流行は現在ではマスコミで大きな話題となっていないものの、100年前のスペイン風邪が今のインフルエンザとして残っているように、新型コロナも変異を続けますので人類がこれから先もずっと付き合っていかねばならない感染症となりそうです。
コロナ禍では、人々の対面の機会が大きく失われ、教育機関では対面講義がストップし、“非日常”の状況とならざるを得ませんでした。大学では教員も学生も一緒に集まることができず大いに苦労しました。パンデミックは人的交流、経済、研究・教育分野等で大変な損失を伴いますが、科学の歴史を眺めると、実は大学が閉鎖されたことで図らずも幸いした有名な例があります。それがニュートンの話です。
アイザック・ニュートンは、ヨーロッパでのペスト流行時(1665年ころ)にケンブリッジ大学に在学していましたが、2年間休講になったために郊外の実家へともどり、非日常の時を過ごしていました。そこで感覚を研ぎ澄ませた中で、リンゴの落ちる様子にひらめきを得て万有引力の考えを得て、微積分の創出にも向かったと言われています。ニュートンが22歳のころです。もちろん、それまでケプラーなどによって蓄えられた天文物理学(力学)の知識が礎として頭の中にあってのことで、真っ白な頭で突然ひらめいたとは思えませんが、リンゴが落ちる動きに何らかの神様の啓示のようなものを感じたのでしょう。ペストの流行そのものはヨーロッパにおいて多くの人命が失われ、大変不幸なことでしたが、大学が閉鎖されてニュートンが実家へと戻ったことは物理学や数学の大発展へ導くトリガーとなりました。
さて、時代は進みますがその260年後に量子力学が誕生します。感染症とは別物ですが、こちらでも似たいきさつがあります。ハイゼンベルクは若いころ、ある時期に激しい枯草熱(今でいう花粉症?)になってしまい、大学のあるゲッチンゲンを離れて植物花粉の影響を受けにくいドイツ北西部の北海に浮かぶ孤島であるヘルゴランド島に滞在しました(古くからこの島はヨーロッパのいろいろな戦争の要所となったようです)。このとき、ハイゼンベルクは日常の雑踏から逃れることで、量子力学の創成へとつながる数学的構造構築(行列力学)の着想を得てその基盤をこの島で作ったとされています。

ドイツ北西部のヘルゴランド島 Wikipediaより Aerial image of Heligoland ⒸCarsten Steger
ニュートン(古典力学)にしてもハイゼンベルク(量子力学)にしても、人類の最高峰の英知が生み出された刹那では、いずれも人の雑踏を離れた非日常の環境が作用したことは興味深いです。外からの情報を一時的に受けない環境に身を置くことは、あたかも昆虫がさなぎで殻を作り外界との接触(食物)を断ち、成虫へと変態するプロセスに似ているようにも思います。大きな飛躍はこうしたプロセスを経ることで可能になることが多いのかもしれません。
現在はどうでしょう。過多とも言える情報社会となり、容易に多量の情報が得られ、絶え間なく電子メールで仕事が追いかけてくる状況にあります。たとえ地理的・空間的に一人であってもインターネット等を通じて地球のどこにいてもリアルタイムで情報がやってきます。非日常に身を置く機会は大変難しくなりました。
世界の情報技術に革命を起こしたQRコードを発明したデンソーの技術者の方は、電車の車窓から見えるビルの形から二次元のQRコードの方位決めのアイデアがひらめいたと聞きます。一方、電車内の乗客を眺めますと、特に若い方々は電車でずっとスマートフォンを凝視している人が多いようです。私は電車の中(特に新幹線の中)ではなるべくボーっとしようと思っています。多忙さが増している昨今、電車内に限らず、自分を取り戻すために、各人がわずかな時間でも非日常を意識的に作る工夫をしてみてはいかがでしょうか。
名古屋市量子産業創出寄附研究部門 特任教授 関 隆広