量子化学・量子技術の基礎知識
関先生のコラム2・・・ヴォルフガンク・パウリ
2025.05.02パウリの名は、大学で物理や化学を学習していない方には、なじみが薄いかもしれませんが、量子力学の黎明期に活躍した物理学者でぜひ覚えていただきたい名前です。プランクによる量子論の誕生の1900年にパウリも生まれました。
前回、1925年に量子力学が誕生したことをお話ししました。1925年にもう一つ、元素や原子構造を理解する上での画期的な発表がありました。それはパウリによる排他原理です。いろいろな元素を扱う物質・材料系の化学畑の人間(私もそうです)にとって、この原理は極めて重要です。
元素の並びを覚えるのに原子番号の小さなものから、「水兵リーベぼくの船・・」と中学生の理科からとにかく暗記しました(させられました)。なぜ原子内の軌道に決まった数の電子しか入らないのでしょうか。それから、メンデレーエフの周期律表もありました。元素の原子番号が増えるに従ってなぜ周期的に化学的性質が変化するのでしょうか。ここでは詳しくは述べませんが、それをパウリの排他原理が見事に説明してくれるわけです。
ボーアの水素模型が発表された1913年当初は、量子は電子軌道の大きさに相当する主量子数だけでした。これだけで済んだらこの分野を学ぶ私たちも楽で(幸せ?)したが、そうはいきませんでした。その後、計測精度が向上して、それまで1本と思われていた原子スペクトルが微細に分裂していることがわかり、磁場をかけることでさらに分裂することもすでに見いだされていました(ゼーマン効果)。これらを説明するために、ゾンマーフェルトはボーアのモデルを修正し、軌道の形に相当する(球形だけではない)方位量子数と、軌道の方向と関係する磁気量子数を加えました。しかし、観測される原子スペクトルをそれでもまだうまく説明できませんでした。ゾンマーフェルト門下のパウリは、それまでの理論が根本の深いところで破綻していると感じ、2つの自由度のある量子数を新たに加える考えに至りました。当初は原子スペクトルを説明するために考え出されたものです。私たちがなじみ深いところではオレンジ色のナトリウムランプがあります。オレンジ色はD線と呼ばれますが、精度よく観測するとわずかに2本に分裂しています。
パウリが提案したこの新たな量子数が、微細な発光スペクトルの分裂を説明するだけのものであれば、ほとんどの化学畑の人間にとって興味がないかもしれません。ところが、この新たに加わった量子数は極めて重要な意味を持ち、それまで知られた軌道に関係する3つとこれの計4つの量子数を考え、パウリは原子の中の電子は4つで同一の量子状態をとることはないとする排他原理を提案しました。パウリ25歳のときです。これは原子構造や元素の化学的性質の周期性を理解のための根本原理となります。
パウリは「現在、物理学はまたしてもめちゃくちゃです。とにかく私には難しすぎて、自分が喜劇役者か何かで、物理学など聞いたこともなかったらよかったのにと思います」という言葉を残しています。この言葉がいつ語られたのか私は正確には知りませんが、排他原理を見出す少し前くらいでしょうか。そうであれば、原子の構造を理解するには、それまでの理論をいったん壊し、根本から考え直さねばならないという苦悩がひしひしと伝わってきます。同じころハイゼンベルクも「いったい我々はいつの日に原子を理解できるようになるのでしょうか」とボーアにつぶやいています(ハイゼンベルク著、「部分と全体」)。パウリとハイゼンベルクは、ともにゾンマーフェルト門下であり朋友でした。量子力学を生みだすことは、両天才物理学者にとっても極めてハードルが高く、「自然がこんなに不条理で良いのだろうか」という感覚を抱いていたのではないでしょうか。そもそも、1900年に量子論の最初のきっかけを作ったプランクも、エネルギー量子(エネルギーは連続的ではなく、とびとびの値となる)の考えを自信たっぷりに発表したわけでなく、発表後しばらくの間は、どこかでこの理論に重大な誤りが見つかるのではないか、という不安をずっと抱えていたようです。
Pauli and Heisenberg 1927 ©Cern Geneva (cutted)
さて、パウリが提案した4つ目の量子数とはなんでしょう。それまでの電子の軌道運動に関わる3種類の量子数では、(原子内では)量子数が大きくなるにつれてとびとびのエネルギー準位の間隔は狭くなり、ついには連続的となり古典力学(ニュートン力学)との対応がつきます。言い換えれば、量子力学の延長線上に古典力学があるわけです。ところが、この4つ目の量子数だけは古典力学との接点は全くなく、純粋に量子力学だけのものです。パウリがそれ以前「これまでの理論の根本が破綻している」と感じていたのはこの特殊性ゆえではないかと思われます。この新たな量子数はすぐに“電子のスピン”ということになりますが、それにまつわるエピソードは次のコラムでお話しすることとします。
パウリは、まだ21歳という若さで一般相対性理論の優れた解説論文を書き(今でもモノグラフとして一般相対性理論の標準的な教科書となっているようです)、その記述の見事さにアインシュタインはパウリの能力を当初からとても高く評価していました。パウリは排他原理の発見でノーベル物理学賞を受けましたが(1945年)、これにはアインシュタインの推薦があったようです。アインシュタインはパウリの受賞祝賀会の席で、「自分の後継者はパウリである」と述べたとのことです。
パウリはさらに、ニュートリノを最初に提唱したことでも有名です。ニュートリノに関しては、ふたりの日本人のノーベル物理学賞に結びついたことは記憶に新しいところです。パウリは量子力学の黎明期で活躍したまさに巨星ですが、必ずしも本人自身は幸せな人生に感じられなかった状況があったかもしれません。私的にもいろいろなことが重なり30歳ころから精神的な不調に苦しんでおり、その治療をきっかけとして心理学者のユングと交流があったことでもよく知られます。
最後にもう一つ、有名な「パウリ効果」をお話ししましょう。パウリは実験が苦手で、よく実験機材を壊していたことで有名です。パウリが近くにいると実験装置がうまく動かない、壊れる、という説がまじめに語られ、実験研究者は近くにパウリのいないことを確かめてから実験をするようになったとのことです。あるとき、ドイツのゲッティンゲンの研究所で、なかなか実験がうまくいかないことがありました。研究員はさっそくパウリが近くにいることを疑いましたが、当日パウリは出張で不在でした。しかし後にわかったことですが、パウリはその日別の場所へと列車にて移動中で、その時ちょうどゲッティンゲンの駅に停車中だったようです(ハイゼンベルク著、「部分と全体」、訳者注)。この話は「パウリ効果」の中でも最も有名なものとのことです。
名古屋市量子産業創出寄附研究部門 特任教授 関 隆広