量子化学・量子技術の基礎知識

関先生のコラム

関先生のコラム7・・・不可解とまで言える物理的直観~マックス・プランク

2026.03.02

1.量子論のはじまり

量子論はご存じのようにマックス・プランクから始まります。量子論と相対性理論を中心とした20世紀に構築された物理学は現代物理学と呼ばれています。その最初のきっかけが、プランクが20世紀の始まりの1900年にドイツ物理学会誌に発表した短報です。まさに新たな世紀のはじまりを象徴しています。

 

プランクが17歳の時に大学を目指そうとしたときに、当時の物理学者から理論物理学の研究はもうやり尽くされているから面白いことは残されていない、との助言を受けました。しかし、彼はミュンヘン大学へ入学した後にベルリン大学へ移り、本格的に物理学の道へと進みました。結果的にこの時の若きプランクの選択が物理学全体を、さらには現在の量子技術へと繋がる革命を起こすことになります。

 

量子論に至る前の1890年くらいまでは、プランクは当時ドイツで最も有名な物理学者であるベルリン大学のヘルムホルツやキルヒホッフの下で研究を行いました。残念ながら、プランクがまとめたエネルギー保存とエントロピーの再考を論じた熱力学の論文はキルヒホッフに間違いを指摘され、ヘルムホルツには読んでももらえなかったようです。また、エントロピーの概念を作ったクラウジウスでさえもプランクの論文には関心を示さなかったようです。さらには後日、プランクの論文の多くの内容はすでに米国のギブスにより公表されていたこともわかり、研究者としての駆け出しはかなり苦い思いをしたようです。

 

1987年にキルヒホッフが比較的若くして亡くなりました(63歳)。その後任教授としてボルツマンやヘルツの名が挙がりましたが、どちらもうまく進まなかったようです。プランクにとって幸いなことに、彼の電気論に関する別の懸賞論文がヘルムホルツの目に留まったことから、1889年にキルヒホッフの後任としてベルリン大学での職を得たとのことです。革命的な論文はこの約10年後に発表されることになります。

 

鉄鋼業はドイツにとって極めて重要な産業でした(鉄は国家なりというビルマルクの有名な言葉もあります)。ただ、良質な鉄鋼製品を得るためには溶鉱炉の温度が重要で、これは当時の職人の溶けた鉄の色合いで判断する勘と経験に頼っていました。溶けた鉄の色は、黒体放射という現象の問題になりますが(図1)、当時までの物理学ではこれを全く説明できませんでした。プランクは、エネルギーは連続で変化せず、きわめて小さいけれども不連続で飛び飛びの値をとる「エネルギー要素」(のちの量子)の考えを導入して、黒体放射の強度分布(プランク分布と呼ぶらしいです)の形状を正確に説明することに成功しました(1900年)。当時、分光器の精度が上がるにつれて、測定値がプランク分布の予測する理論値へと近づいたということですから、当時の測定技術よりプランクの式の方が正しかったという驚くべき成功です。

図1 黒体放射の例、製鉄所内の銑鉄の光(出典:JFEスチール株式会社)

 

後日、量子力学の黎明期にて極めて重要な貢献をしたマックス・ボルンは、プランクがプランク分布の公式を導いた驚くほど単純な手法について、「物理学の歴史の中で最も重大で意義深い手法であって、不可解とまで言える物理的直観による」と述べています。

 

不可解なほどの革命的な業績は、革命児たる発信力の高い気質を持っている人が生み出すもの、と想像されるかもしれませんが、実はそうではありません。プランクはとても思慮深く慎重な人で、しばらくは自分が成功をおさめた理論式は現象を説明するための数学的な操作として考え、いわゆる古典論へと回帰されるべきものであり、結局は古典物理学が勝利するものと信じていました。

また、発表から10年ほどは、不連続的なエネルギーの扱いは周囲からほとんど注目を集めませんでした。1900年の発表後、プランク自身はエネルギー要素の考え方で出てくる定数h(プランク定数)は“都合の悪いもの”として、h → 0とすることを目指し、古典論の骨組みになんとか当てはめようと努力しました。しかし、どんな手を使ってもこの定数は頑として外すことができませんでした。

 

プランクが古典的な見方をあきらめ、ついに自身がエネルギーの不連続性を受け入れるのに8年の歳月を要しました。この事実は重要なことを示唆しています。プランクの革命的な業績は、彼が保守的な立場を貫き、それまでの基盤の学問や理論に精通していたからこそ誕生したものと言えるでしょう。ですから、日本語としては、単なる感覚的なひらめきの“直感”ではなく“直観”の表現が適切です。当初プランクが用いた「エネルギー要素」の表現は、1910年くらいに「量子」という言い方になり、今使われる量子論という言葉が誕生しました。それまであまり注目されなかった量子化の扱いが、本質的なものであるかもしれない、と潮目が変わりだした契機は、1905年の若きアインシュタイン(26歳)による光電効果の論文発表と、量子の仮定を大胆に取り入れた1913年の若きボーア(28歳)の水素原子モデルの発表と言えます。

 

あまり知られていないかもしれませんが、プランクは黒体放射の理論的解釈への模索を続ける過程でボルツマンの式を明確にしました。彼は黒体放射の現象に、自身が熱力学で求めてきた“崇高なもの”を見出しました。温度に依存する原子運動の乱雑さ(エントロピー)の変化とそこで生じる原子振動(共振子)による光放射現象を関係づけました。ボルツマンによりエントロピー(S)が系のミクロな状態数Wの対数に比例する関係(S ∝ln W)は示されていましたが、プランクはこれを黒体放射の問題に当てはめ、見事な数学的直観からS = kln Wk:ボルツマン定数)と書き表しました。これは理工系の大学生が熱力学で必ず学ぶ極めて重要な式ですが、ボルツマン定数kを使って定式化したのはプランクです。私の専門分野は高分子や液晶ですが、こうした異分野でも、アルキル鎖の状態計算やフローリー-ハギンスの扱いによるエントロピー計算などはこの式が基本となります(ちなみに、フローリーはこの業績を中心に高分子化学への貢献で1974年ノーベル化学賞受賞しています)。化学系大学課程の物理化学の教科書では、量子論と熱力学は別系統のように扱われますが、源流へさかのぼると、統計熱力学として根は一緒のところにあります。そもそも、熱力学の大家であるプランクが量子論を創始したわけですから。

 

 

2.フンボルト大学(旧ベルリン大学)

今回のコラムは少し長くなりましたが、プランクが活躍したベルリン大学を少しだけ散歩したいと思います。かつてのベルリン大学は現在、創始者のフンボルト兄弟の名を冠してフンボルト大学へと名称が変わっています。2013年に私の研究分野のフォトクロミズム国際会議がここで開かれたことで、私は幸いこの大学を訪問することができました。フンボルト大学の本館の正門からまっすぐに歩きますと、上に書きましたヘルムホルツの像が中央にあります(図2の左写真)。その左側の芝生の方へ目を移しますと、そこにモダンアート風にデフォルメされたプランクの立像があります(図の右写真)。なかなかかわいらしいです。

図2 フンボルト大学本館正面のヘルムホルツ像(左写真、本館上部にフンボルト大学の文字が見える)と、その左側にあるプランクの立像(右写真):(2013年9月11日著者撮影)。挿入したプランクの肖像画はWikimedia Commonsより(Courtesy of the Clendening History of Medicine Library, University of Kansas Medical Center.)。

 

フンボルト(ベルリン)大学は、自然科学分野の中心的な発信地で、自然科学だけでも50名くらいのノーベル賞受賞者がこの大学に在籍しました。ここで活躍した教授としては、物理学ではすでに登場したキルヒホッフ、ヘルムホルツ、プランク以外では、アインシュタイン、ラウエ、シュレディンガー、ネルンスト、化学では、ファントホッフ、フィッシャー、デイールス、アルダー、医学ではコッホといったように、高名な研究者がいます。本館の2階にはサロン風の空間があり、ここで上記国際会議のポスターセッションをやりました。ここには歴代のこの大学のノーベル賞受賞者のポートレート(絵画や写真)がずらっと並んでいます。

 

この本館の内部は多くのノーベル賞受賞者から発せられる圧倒される雰囲気が漂っていて、自然科学の基盤となる多くの発見・発信がこの地でなされたという、胸おどらせるものがあります。明治時代の日本からは、森鴎外、北里柴三郎、寺田寅彦などがここに留学しました。私が2013年の国際会議へ出席した際は、森鴎外が下宿していた建物の近くのホテルに宿泊しました。先人がたどった足跡を追い、その場所の空気と雰囲気を感じるだけでも、海外での国際会議へ出席することは大きな意味があり、自分もがんばろう、と触発されます。特に若い人にはとても大きな刺激になるはずです。若い方々は機会を捉えてぜひ積極的に海外を訪れてみてほしいです。

 

 

今回のコラムの前半に記載した内容は、W.クロッパー著、水谷淳訳、「物理学天才列伝・下」、ブルーバックス、講談社(2009)を参考にしました。

 

名古屋市量子産業創出寄附研究部門 特任教授 関 隆広